尊皇攘夷の志士
景福寺の境内の一角に「誠門軒遂元柁翁居士」と刻まれた墓石があります。
〝財政破綻寸前の備中松山藩を大改革して救った山田方谷(やまだほうこく)〟
〝幕府の外国奉行として遣欧使節団を率いてナポレオンにも謁見した
井原領主・池田長発(いけだながおき)〟と並んで、幕末維新期に岡山が生んだ
三傑のひとりに数えられる〝牧野権六郎(まきのごんろくろう)〟のお墓です。
権六郎は幕末の備前岡山藩士で、当時国内が尊皇攘夷派と公武合体派とで
大揺れの中、慶応3年(1867年)、京都屋敷駐在留守居役を務めているとき、
10月初旬(旧暦)に京で薩摩・土佐などの列藩有志が会して時局収拾の策を練る
会議が行われ、なかなか結論が出ないなか、権六郎が「策は唯一有り、
慶喜に将軍職を朝廷に奉還せしむるのみ」と言い切り、一同を大政奉還に
意思統一させたとされています。
数日後の10月13日、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は二条城に四十藩の
重臣七十余名を招集して大政奉還について諮問し、薩摩・土佐・安芸・
宇和島の四藩代表は一緒に謁見を許され見込(意見)上申しましたが、
それとは別に権六郎は単独での謁見を許され、大政奉還の要を縷々と言上
したと言われています。(諸説あり)
想像ですが、この時の岡山藩の殿様・池田茂政は水戸徳川家からの
養子で慶喜の実の弟だったので、慶喜としては岡山藩の意見を重視した
からかとも思われます。
翌14日に慶喜は皇室へ奉上し、15日に勅許、大政奉還が成立しました。
ただ、当初は皇室への奉上は15日の予定だったらしく、皇室では
14日に薩摩藩・長州藩へ討幕の密勅を下していました。
大政奉還と討幕の二股工作を進めていた薩摩藩としては、藩主が将軍の
実弟である岡山藩にそのことが知れると岡山藩の態度が急変するかもしれ
ないと動揺が走りましたが、西郷隆盛が「備前には幸い傑物・牧野権六郎が
健在だから案ずるに及び申さぬ」と言ったという話も残っています。
今から153年前のことです。
牧野権六郎(1819~1869)
幼名・孝三郎。名・成憲。号・柁翁(だおう)。
役職役目等・房総警備岸織部組鉄砲引廻役、貝太鼓奉行、近習頭分、
大目付、近習物頭、小串砲台並びに下津井砲台築造御用、国事周施御用、
軍事改革御用、京都屋敷駐在留守居役、軍事顧問、参政刊法主事上席、
学校御一新御用掛。
行年51歳(満49歳)。
牧野家の遠祖は現在の愛知県の出で、今でも愛知県は約1,200カ寺もの
曹洞宗寺院があり、遠祖も曹洞宗の檀越だったと思われます。いつかの時代
に同じく愛知県出身の池田家の家臣となり、池田家の岡山封入と共に当地に
赴き景福寺と縁ができたと想像されます。
元々の墓石は現在の場所から西南へ35mほどの所に立っていたと伝え
聞いています。ただ、昭和20年の岡山大空襲で火を被り崩れ落ちてしまい、
その後の都市開発で境内も縮小されたため、現在の墓石は戦後新たに
今の場所に建立したものです。