尊皇攘夷の志士 その2
今年9月30日のブログでご紹介した、当寺にお墓の
ある〝幕末の備前岡山藩士 牧野権六郎〟
(9月30日ブログ→ keifukuji-okayama.com/blog/927/)
大政奉還の成立した慶応3年(1867年)10月15日を挟んで、
同年7月から12月までの半年の間に、権六郎は岡山~京都
間を6回行き来したことが文献に残っているそうです。
Googleナビで岡山市役所から京都市役所の距離を検索
してみると片道204㎞と出ます。往復で408㎞。それを6回
だと、総距離2,448㎞となります。因みに北海道最北端の
宗谷岬から九州最南端の佐多岬まで縦断する距離を同ナビ
で検索すると2,234㎞なので、これより更に200㎞以上
長い距離となります。
当時の国乱のなか、権六郎は京に上っては各藩要人に
伍して調整を重ね、自国に戻っては将軍の実弟が藩主の
ままでは岡山藩の立場が危ういため、藩主の隠居と新藩主
の擁立に奔走しました。そのような重責のなか、昔の人は
健脚だったとは聞きますが、まだ車も電車もない時代に
半年の間でこれだけの長い距離を移動していることには
驚きます。
幕末維新期という大きく世の中が変わろうとする時代の
うねりに翻弄されたとはいえ、正に東奔西走の激務だっ
たと思われます。
権六郎の焦心苦慮の活動がなければ、岡山は兵火の
惨禍を免れず焦土と化していた可能性が高いとする歴史
研究家もいるくらいです。
現代の感覚からすると若過ぎるといえる約50年の生涯
でしたが、それは中身の濃い人生だったことでしょう。
コロナ禍で様々なことを変えざるを得ず、迷い戸惑っ
ている現代の私達を激動の時代を生きた権六郎が見たら
どう思うのでしょう。
墓前に手を合わせ、その考えを聞いてみたいものです。
「いたずらに百歳生けらんは恨むべき日月なり
悲しむべき形骸なり たとい百歳の日月は声色の
奴婢と馳走すとも その中一日の行持を行取せば
一生の百歳を行取するのみに非ず 百歳の佗生をも
度取すべきなり」
訳:百歳という長寿であっても空しく過ごした
一生なら、それは悔やまれる歳月であり、中身のない
悲しい人生です。たとえ百歳の年月が煩悩に振り回さ
れて過ぎ去るとしても、その中の一日でも菩提心を
起こして仏の道を歩むなら、この一生を正しく取り
戻すだけでなく、次の生涯の百年をも救うことが
できるのです。
(曹洞宗経典 修証義 第五章 行持報恩より)
旧岡山城下図↓
✿江戸末期 岡山城下図✿
画像の左上のほうに〝牧野権六郎〟と記されて
います。
現在の岡山東税務署の南向かい辺りに自邸が
あったと思われます。